スイス第二の国際都市バーゼルよりロジャーの物語は始まる
1981年8月8日、ロジャー・フェデラーはスイスのバーゼルに、母リネット、父ローベルト夫妻の第二子、長男として生を受けました。両親は1973年に結婚し、97年に第一子に長女ディアナを授かってて以来、4年後の出来事でした。
バーゼルはスイス第二の都市と言われ、スイス、ドイツ、フランスが国境を接するライン川沿いに位置する多言語が飛び交う国際都市です。フェデラーが3ヶ国語を流暢に操ることができるのは、この国際都市バーゼルで育ったことが大きいです。
父ローベルト
ロジャーの父ローベルト・フェデラーは、1946年繊維労働者の息子として生まれ、スイス東部のアルトシュテッテン近郊の街で育ちました。その後、バーゼルに本社を置く世界的製薬企業チバガイギー(現ノバルティス)の実験助手として職を得ていましたが、1960年代待つ、仕事を辞め旅へと出ました。
当時入国が簡単だった南アフリカへと落ち着き、ヨハネスブルグの工業地帯で、再びチバガイギー社の南アフリカ拠点工場で働き始めました。
母リネット
一方、母リネットは1952年に生を受け、南アフリカのケンプトン・パーク傍のアフリカーンス語を母語とする裕福な家庭で育ちました。彼女もチバガイギー社に秘書として務めていた18歳当時、ローベルトと親しくなり、テニスの手ほどきを受けるなどして親交を深め、1973年に結婚しました。
ローベルトは趣味程度でテニスを楽しんでいましたが、リネットは才能に恵まれすぐに夫より高いレベルでプレーをするようになりました。そこそこの野心はあったものの、プロを目指すことはありませんでした。
1973年の結婚を契機に2人は南アフリカからスイスへ渡り、バーゼル郊外にあるドイツと国境を接するリーエンへ生活を移します。ローベルトはチバ社のセールス・エグゼクティブへと昇進し、リネットも同社で職を得て、会社のスポーツクラブでテニスを楽しんでいました。
母リネットのテニスの才能
リネットは数年後、更なる上達を目指してバーゼル屈指の選手養成機関であるテニスクラブへ入会します。才覚をあらわしたリネットは、全国クラブ対抗大会の優勝メンバーとして活躍しました。また、彼女はスイステニス協会バーゼル支部の役員として、若手育成に携わり、テニス復興に尽力しました。実は、リネットは長年に渡り、ATP500「スイス・インドア」大会の運営に関わっていました。
この時、バーゼルからスイス・インドア大会を7度も制する英雄が生まれるとは誰も想像していませんでした。
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